
※主人公の名前はデフォルト名の「舞花」になっています。
01 夢の続き
いったいどこまでが現実で、どこからが夢なのか。
朝目が覚める度に自分に問う。
答えなんて、本当はとっくに出ているのに。
***
ぼんやりと目を開くと、格子窓から柔らかな朝の光が射し込んでいた。
赤い格子。その向こうに立ち並ぶ赤い楼閣。
その現実離れした光景は、一枚の絵画のように美しいけれど――
「だからこそ夢なんじゃないかって、思っちゃうんだよな……」
この世界に来て五日目の朝だというのに、目覚めてもなお夢の続きを見ているような気分だ。
「あれがガラスの窓に、灰色のビルとかだったらよかったのに」
「びる? それはどんなものなの?」
「え……」
独り言に返事があり、一瞬思考が止まる。声がした方をぎこちなく見ると、いつの間にか寝台に『陛下』が腰掛けていた。
どこまでも深い紅色の髪に、甘く整った顔立ち。そして髪色を引き立てる赤を基調とした着物。
彼は楼蘭(ろうらん)の若き王、姜秀瑛(きょう しゅうえい)。私の仮初めの旦那様でもある人だ。
――そう、あくまでも婚姻関係は偽物で、断じて一緒に朝を迎えるような仲ではない。
「おはよう、舞花。よく寝てたね」
陛下は私を見下ろしたまま機嫌よさそうに笑う。その笑顔からは、無断で寝室へ入った後ろめたさとか、気まずさが少しも感じられない。だからこそ余計に質が悪いと思ってしまう私は、きっと間違っていないはずだ。
自分の寝衣が乱れていないかをさりげなく確認しつつ上半身を起こす。
「どうして陛下がここにいるんですか……」
「どうしてって、夫である俺が、君の寝室にいるのは何も不思議なことじゃないよ」
「それは本物の夫婦の場合です!」
「仮でも夫婦なら問題ないと思うけど……手を出すのは我慢したんだし。ただ君に断らずに寝室に入って、かわいい寝顔を見ていただけだ」
陛下はさらりと問題発言をしつつ小首を傾げる。
「だけど我慢したのに怒られるなんて、少し損した気分だよね。ようするに我慢する必要はなかったのかな……。舞花はどう思う?」
「どうと聞かれましても」
もう何から突っ込めばいいのか分からない。私に分かるのは、ただひとつ。陛下はとても困った人ということだけだ。
「お願いですから、こういうのは今日限りにしてください。すごく心臓に悪いですから」
「努力するよ、とだけ答えておこうかな」
「それって少しも聞く気ないですよね……?」
「そりゃあね。こんなに楽しいこと、早々止める気になれないよ」
「私はちっとも楽しくないです」
寝顔を見られるなんて恥ずかしいし、落ち着かない。できれば数分前だか数十分前の過去に戻って、ぐーぐー寝る自分を叩き起こしたいくらいだ。
「そうなの? だったらそうだな……舞花がかわいくお願いしてくれたら考え直そうかな」
「かわいくって……たとえばどんなふうにですか?」
「聞きたい?」
悪戯っぽい瞳で見つめられ、うっと言葉に詰まる。
これは聞いちゃいけないやつだ。
「……遠慮しておきます」
「賢明な判断だけど、それだと少しつまらないな」
陛下は寝台に手をつくと、何を思ったのか私に向かって身を乗り出してくる。
「わっ」
後ろに逃げても、逃げただけ距離を詰められて、とうとう背中が壁に当たる。視界に陛下の姿しか映らないくらい近い。
「離れてください!」
「この話が終わったら離れるよ。それより舞花、ためしにお願いしてみてよ」
「た、ためしにって言われましても……」
そう言っている間にも、さらに陛下との距離が近づいている。たまらず俯こうとしたけれど、それよりも早く陛下の手が私の頬に触れた。
「俺としては、たまには愛しい寵姫にわがままを言われてみたいんだけど」
「そういうのは他の人で挑戦してください」
「俺が妃以外をこんなふうに口説いてたら問題でしょ」
「この状況も十分問題です!」
首を振っても逃がしてもらえず、陛下の楽しそうな笑い声が間近で響く。完全に面白がられていると分かっているのに、顔が熱くなるのを止められない。
「舞花、こっち向いて? そんなふうに俯いてたら、顔が見えない」
「そ、そんなこと言われても……っ」
無理やり顔を持ち上げられそうになって、首を精一杯すくめたところで――
「いい加減にしてください!」
いきなり叫び声が割り込んで、陛下が動きを止めた。
この声ってまさか……。
信じたくない思いでいっぱいになりながら、声が聞こえた扉の方を見ると、少し幼さを残した青年が、顔を真っ赤にしながら握り拳を震わせていた。
劉俊(りゅう しゅん)――ここ楼蘭の名門貴族である劉家の次男で、陛下の護衛を務める一番隊隊長だ。私と同い年か少し下くらいに見えるのに、ずいぶんと剣の腕が立つという話だ。そして――
「そういうのは俺がいないところでやってください!」
すごく純情で、照れ屋でもある。今だってこっちを見ているようで、微妙に目をそらしているくらいだ。
「あ、あの……陛下。まさか俊って、ずっとあそこにいたんですか?」
「そうだけど。もちろん舞花の寝顔が見えない位置に立たせておいたから、心配しないでいい」
問題はそこじゃない。
それ以前の問題だ。
「どちらにしても劉俊のことは気にしないでいいよ。置物か何かだと思えばいいから」
いやいやいや無理です。思えないです。
首を横に振ったところで、扉の前にいた俊が、ずかずかと大股でこっちにやってきた。
「気にしないでいい、じゃ……ねーだろっ、この女ったらしが! それに誰が置物だ!」
「心外だなぁ、俺のどこが女たらしなんだよ」
「日頃の自分の行いと、今さっきまでやってたことをよーく思い出せ!」
「ただ自分の妃を口説いてただけだよ。舞花が誤解するようなことを言わないで欲しいな」
「いや、妃つったってまだ正式じゃ――」
「とにかく、今いいところだから邪魔するなって」
「落ち着け。いいところだったと思ってるのは秀瑛だけだ。だいたいあれだろ? 女ってのはしつこくすると嫌われるとかなんとか……よ、よくは知らねーけど」
「相変わらず駄目だな、俊は。そんな調子だから、いつまで経ってもいい人ができないんじゃないか」
「うるせーほっとけ!」
従者のはずの俊だけど、完全に敬語が吹き飛んでしまっている。だけど、陛下は気にする様子もなく、むしろ生き生きとした笑顔を浮かべながら俊をからかっている感じだ。
話している内容はアレだけど、言い合うふたりは実に仲がよさそうだ。
主従関係というより、気心の知れた友人同士に見える。
「思うんだけど、そんなに怒るならここまで付いて来なければいいんじゃない? 俺は来いとは一言も言ってないよ」
陛下の言葉に、俊は途端に嫌そうに顔をしかめる。
「俺の仕事は秀瑛の護衛だろ。来いと言われなくても傍で守るのが務めなんだよ。……それに兄上からも、くれぐれも陛下から目を離すなと言われてるしな」
今度は陛下が顔をしかめる番だった。
「圭璋(けいしょう)に? それは嫌だなぁ」
劉圭璋(りゅう けいしょう)さん。俊の兄で、文官の長を務める人だ。とはいっても、私が会ったのは二度だけだから、どんな人なのかまだよく知らないのだけど。
「ここのところ陛下は、私の目を盗んでどこかで遊んでいるようだから、今日こそは目を離さず、執務室からも出さないように、だってよ。ま、お前のことだし――」
俊は私をちらりと見ながら話を続ける。
「仕事さぼってそいつと遊んでんだろうけど」
「えっ?」
私と?
それはおかしい。
たしかに陛下は毎日のようにこの部屋に来るけれど、それは朝か寝る前のどちらかだ。昼間ここで会ったことはない。
一度だけ楼閣内を歩いている時に捕まって、執務室に連れ込まれたことがあったけれど、あの時の陛下は一応仕事をしていたはずだ。
「待って、俊。私は――」
言いかけたところで、陛下と目が合った。
陛下は俊に気付かれないように、人差し指をそっと自分の唇に当てる。
どうやら黙っていてと言いたいらしい。
「なんだよ」
俊がきょとんとした顔で瞬く。
「……なんでもないです」
「変な奴だな」
俊は怪訝そうにしつつも、気を取り直すように陛下を見た。
「そういうわけだから、さっさと行くぞ。そろそろ朝議がはじまる時間だしな」
「……仕方ない。妃と離れるのは身を裂かれるような思いだけど、行くとするか」
「だーかーら、いちいち大げさなんだよ!」
***
陛下と俊が言い合いながら(というより、俊が一方的に噛みつきながら)部屋を出ていった後、入れ違いで侍女が部屋に入ってくる。
妃付きの侍女の麗玉(れいぎょく)。二十歳くらいの、瞳に意志の強そうな光を宿した女性だ。
「今日は劉俊様もいらしてましたから、いつもに増して賑やかでしたね」
「ほんと仲がいいよね。兄弟みたいっていうか……王様とその護衛って感じはしないかな」
「おふたりは陛下が即位される前から懇意にされていたそうですから、やはり特別なんでしょう」
麗玉はテキパキと着替えを用意しながら言葉を続ける。
「劉俊様も身分の高い方ですし、他の貴族の方々が目をつぶっているというのもあるでしょうけど。陛下と劉俊様を諫められる立場の方は、劉圭璋様くらいですから」
「なるほど……」
身分差のあるこの世界では、陛下と俊の関係は少し特殊ということらしい。
どちらにしても、本来ならぽっとやってきた私が話すことも叶わない人たちなんだろう。
「ですが、陛下が内密に執務室を出られているのは気になりますね。ここ数日、供も付けずにどこかへ向かう陛下を見たという話を何度か耳に挟んでいますが……」
「噂になってるの?」
「ええ。どこかで逢い引きでもなさっているのでは、と話す者もいます」
頷く麗玉の瞳がきらりと光る。
「そんな噂話は信じたくはないですが、だとしたら人目を忍んでどこで何をなさっているんでしょうね」
「麗玉、目が怖いよ?」
「お妃様、いくら陛下のなさることだとしても……いえ、陛下のなさることだからこそ、お妃様は目を光らせなければならないんです。どこかで貴族のご息女と逢い引きでもなさっていたら一大事ですから」
「と言われても、私は……」
「本物の妃じゃない」と言いかけて呑み込む。この話は他の人には内緒だ。
訳あって、偽りであることを圭璋さんに知られてはいけないからだ。
今のところ仮の妃であると知っているのは、私と陛下以外には俊だけだ。秘密を守るために、今後も他の人に知られないように気を付けてと言われていた。
***
身支度と朝食をすませた後は、麗玉に一言告げてから部屋を出る。
この世界に来た時は、兵士に追いかけ回されるし、捕らえられて強引に連れ戻されるしで散々な目に遭ったけれど、今ではこの楼閣街と呼ばれる王族や貴族が過ごす区画内に限っては、ある程度の自由が許されている。
もちろん護衛の兵士はついてきてしまうけれど、少し距離を置いてくれているし、そのあたりは我慢だ。
「今日はどこに行こうかな」
西の方は一通り回ったし、次は東側だろうか。
本当は路面電車の方に行きたいけれど、向こうは一歩間違えると連れ戻される可能性が高い。そのリスクを負うのは、楼閣街で大人しくしていても日本へ帰れないと分かってからで十分だ。
立ち並ぶ楼閣に遮られて、東側に何があるかは分からない。
あの向こうに少しでも日本へ帰る手がかりがあるのを祈りながら歩き出した。
02 花と秘め事
歩き続けるうちに、楼閣がぽっかりとない場所に出た。
そこは赤い建物の代わりに濃い緑に覆われていて、人の気配はなく、時折思い出したように小鳥のさえずりが響いている。
ここにこんな場所があったとは驚きだ。
ずいぶんと綺麗な所だけど……。
入っていいか判断が付かず振り向くと、離れたところに護衛の兵士が控えている。止められる様子はないけれど、なぜかこの中まで付いてくるつもりもないらしい。
「入ってもいいってことだよね……?」
首を傾げながら細く続く石畳の道を進む。
目がすっかり赤に慣れていたのもあり、緑がやけに鮮やかに映る。
向こうの方には、桃の花が咲いているのも見えた。
「わぁ……」
物珍しさからか自然と胸が高鳴る。辺りを見回しながら奥へと進んでいくと、わずかに開けた所に小さな東屋を見つけた。
東屋には先客がいる。ここからでは後ろ姿しか見えないけれど、あれは間違いなく陛下だ。
なんで陛下がこんなところにいるんだろう。
ふと思い出すのは、さきほどの麗玉との会話だ。
まさか逢い引き中?
どきっとしながら陛下の傍をもう一度確認するけれど、陛下の他に人の姿はない。今日は張り付いていると宣言していた俊までいないことで、麗玉の話の信憑性が増してしまった。
お忍びで待ち合わせをしていて、これから相手が来るところなのかもしれない。
大変だ。ばったり会う前に退散しよう。
もし顔を合わせることになったら、気まず過ぎる。
音をたてないように回れ右をする。そのまま元来た道を引き返そうとして――
「どうして戻っちゃうの?」
「!」
「声をかけてくれないなんて、相変わらず君はつれないな」
「陛下……」
どうやらすでに手遅れで、私がいるのに気付かれていたらしい。
首をすくめながら振り向くと、陛下は柔らかい笑みを浮かべて手招きをした。
「舞花もこっちにおいでよ」
「いえっ、お邪魔するわけいかないので、私はもう戻ります!」
「邪魔? なんでそんなふうに思うの?」
「なんでって、だってここにいたら逢い引きするのに――」
「逢い引き?」
急に陛下の声が低くなった気がした。
「逢い引きって、誰と?」
気のせいじゃない。確実に声が低くなっている。
さく、と草を踏みしめる音が聞こえ、陛下がゆったりとした足取りで私の方へやってくる。その顔には間違いなく穏やかな笑みが浮かんでいるというのに、目が少しも笑っていない。
「考えたくもないけど、まさか――」
「相手が誰かなんて、陛下の方が分かってるはずじゃないですか」
「……ん?」
「ご自分の逢い引き相手なんですから」
「んん? ちょっと待って」
陛下は額に軽く手を当てながら目を閉じる。
「……うん。君が俺をどう思ってるのか、だいたい分かった。だけど、そんな誤解をされるのは心外だな」
「心外ってことは……陛下が誰かと逢い引きしてるって噂は嘘だったんですか?」
「正確に言うと、たった今その噂は真実になったけどね」
陛下は私に向かって手を差し出す。
「せっかくここまで来たんだから、少し付き合ってよ」
東屋の椅子に座ると、陛下も私の隣に腰を下ろす。
陛下は背もたれに寄りかかり、目を閉じながらゆっくりと息を吐いた。
「この場所はけっこう気に入ってて、時々息抜きに来てるんだ。俊と圭璋には内緒なんだけどね」
「じゃあどこかに行ってたっていうのも、ここだったんですか?」
「うん。……あ、もちろん一人でだよ? 浮気を疑われたらたまらないから、念のため」
「べ、べつに浮気だと思ってたわけじゃないんですけど……」
「それはそれで複雑だなぁ」
陛下はわざとらしくため息を吐く。
「仮でもいいから妃になってくれと持ちかけたのは俺だけど……俺の計画だと、そろそろ君もほだされて情が湧いてる頃で、本当の夫婦になったような気になりはじめてるはずなのに」
「そんな計画はすぐに破棄してください!」
「うーん、手厳しい。この美しい緑に囲まれた東屋にいても、雰囲気に流されてくれないのか。……君にとってこの世界が夢の続きのような場所なら、しっかりと地に足を着けなくてもいいのにね。もっと流されてくれていいんだ」
「それは……」
「楼蘭での生活は、舞花にとって夢みたいなものなんだろう? 今朝、起きたばかりの時にそう言ってた。そして君は、君にとっての現実に帰りたいと願ってる。舞花はここでの未来を少しも考えていないんだ」
「……」
返す言葉が見つからないのは、なぜか陛下が寂しそうに見えたから。そして、まさに今言われた通りだったからだ。
やっぱり陛下は、私を日本に帰したくないのかな。
ここにいて欲しいって思ってくれているのかな……。
――だけど、それでも私は帰りたい。家族が、友人が待っている私の世界に。
何も答えられずにいると、陛下は桃の花へと視線を移した。
吹き付ける風に揺られ、花びらがはらはらと舞い落ちる。
「……花は儚いな」
桃の花を見ているようで、どこか遠くを映している瞳。
ここにいない誰かを探しているような、深い孤独が覗く瞳。
どうしてこんな所にいるのかと思ったけれど、もしかするとそんな顔を配下の人たちに見せられないからかもしれない。
陛下はこの世界のたったひとりの王だから。すべての上に立つ者には、私には想像も付かないほどの重荷を負うんだろう。
――やっぱり、今は傍にいるべきじゃないのかもしれない。
だけど、そっと立ち上がったところで、陛下の手が私の手を掴んでいた。
「どこに行くの?」
「陛下がここにいたのは、ひとりになりたいからかなって思って……」
「違うよ。ひとりになりたくなかったんだ。だからこそここにいる」
返ってきた言葉は謎かけのようで、陛下の真意が見えない。
どういう意味なのか知りたくて、真っ直ぐ見つめ返したところで、陛下が急にふっと表情を崩した。
「そろそろ行こうか」
それはきっと、この話はここまでだという合図。
それなら私もこれ以上踏み込むべきじゃないんだろう。
「いつもならここに俊が入ってくることはないけど、あまり遅いと痺れを切らせそうだしね。そろそろ探しに来ても不思議じゃない」
「なんで入って来ないんですか?」
「ん? ああ……君は知らなかったんだ。だからか……」
だから?
「いや、ごめん。こっちの話。……ここは王のための庭だからね」
「えっ、そうだったんですか!?」
陛下以外に誰もいないのは、そういう理由だったらしい。
だから護衛の兵士たちも入ってこなかったのか。
「すみませんっ、勝手に入ってしまって……すぐに出ます!」
「だからこそ舞花は構わないんだよ。妃なら、ここに入る資格は十分にあるでしょ?」
「でも私は――」
「しー……黙って、舞花」
唇に、そっと人差し指を当てられる。
「今は聞きたくない。今だけは、君は俺のものだって思わせて」
その言葉に、やっぱり私は答えられない。
だけど、今度は答えないからこそ肯定となった。
***
「部屋まで送ってくださり、ありがとうございます」
「このくらいしかできないのが悔しいよ。本当はもっと一緒にいたいんだけど、圭璋がうるさいからなぁ……残念」
そこで陛下はちらりと廊下の先を見て、おもむろに私の腰を抱き寄せた。
「わっ、急に何するんですか……!」
もちろん逃げようとするけれど、強引な手が簡単に解放してくれるわけもない。
「言い忘れたことがあって。約束できるかな……さっきのことは内緒だよ?」
陛下は私を抱き寄せる腕にさらに力を込めながら、声をひそめる。
「あんな風に君に甘えてたなんて知られたら、照れくさい」
「え……あれって甘えてたんですか……?」
「うん。おかしいよね」
「そんなこと、ないと思いますけど……陛下だって弱ってる時とか、辛い時があると思いますし……」
そうか、甘えられてたんだ。知らなかった。
男の人に甘えられるなんてはじめてだから、気付かなかった。
「ありがとう」
耳元で囁かれ、顔が熱くなるのを感じながら頷く。
それはともかく、とにかく近い。近すぎる。
前から感じていたけれど、この人のパーソナルスペースはちょっとおかしい。でも、おかしいのはそれだけじゃない。なぜかさっきから心臓が大騒ぎしている。このままじゃ鼓動が陛下にまで伝わってしまいそうだ。
「内緒にしてくれるならよかった。劉俊あたりに知られたら、またうるさく言われるからさ」
「だーれーがーうるさいって?」
地の底から響くような声が聞こえて、びくりと大げさなほど肩が震える。
慌てて陛下の腕から逃げ出して振り向くと、目を据わらせた俊が髪をがしがしとかいていた。
「あれ、劉俊だ。いつからいたの?」
「いつからじゃねーだろっ。お前は結局、その妃といちゃついてただけじゃねーか! だったらはじめからそう言えばいいだろうが!」
真っ赤になって怒る俊の後ろから、今度は麗玉が顔を出す。
「お妃様……そういうことだったんですね。お忙しい時間の合間を縫っての秘密の逢瀬……やはり陛下にはお妃様だけです。そうとは知らず無粋なことを申し上げました……申し訳ございません」
「えっ、ちが……」
その言い方じゃここ数日間、陛下と一緒にいたのも私みたいだ。たまたま今日会っただけだというのに。
「あーあ、バレちゃった。困ったなぁ……舞花は恥ずかしがり屋だから、できれば内緒にしておいてあげたかったんだけど」
「何言って……むぐっ」
言いかけた抗議の言葉は、口元を大きな手の平で覆われて出口を失う。
「俺が逢瀬を重ねていた相手は君だったってこと、これでみんなに知られちゃうね」
断じて違います! と、いくら心の中で叫んだところで無駄で。
かくして陛下の噂は、あっさりと「嘘」に塗り替えられたのだった。
03 困った人
いったいどこまでが本音で、どこからが嘘だったのか。
悩んでみたところで、あの人の真意は分からない。
そしてこの答えは、当分出そうになかった。
***
翌日は、いつもよりずいぶんと早く起きて身支度をすませていた。
昨日、陛下に散々振り回されて悔しかったのもあるし、単純にもう寝顔は見られたくなかったというのもある。
あとは陛下が訪れる前に、この部屋を出てしまえばいい。
「今日はどこに行こうかな」
格子窓の外を眺めながら考える。ここにきて今日で六日目。それほど広いとはいえない楼閣街の中は、だいたい回った。土地勘がまだないのは、あの路面電車が停車するあたりだけだ。
「まだ行き先が決まってないなら、一緒に東屋に行こうよ」
「何言ってるんですか。また俊に怒られますよ」
……って、あれ?
「えっ、わ!?」
いきなりぎゅっと後ろから抱きしめられて、心臓が飛び出しそうになる。
振り向かなくても分かる。
さっきの声の主も、こんなことをするのも陛下だけだ。
「おはよう、舞花。今日は早起きだね」
「な、な……っ」
口があわあわと動くだけで、声にならない。
「な?」
と、後ろからのんきな声が聞こえ、自分の中で何かが切れたような気がした。
「……っ、気配を絶って背後に立つのも、いきなり抱きつくのもやめてください!」
「背中ががら空きだったから……つい、ね」
「つい」でいちいち抱きつかれていたらたまらない。
本当に何から何までいつも通りだ。こうしていると、昨日見た寂しげな陛下は幻だったんじゃないかと思えてくる。
「舞花は今日も温かいな」
「陛下は今日も困った人です」
いつだって陛下は心臓に悪い。
ああ、やっぱりこれは夢なんかじゃない。
現実だからこそ、こうもままならないのだから。
おわり